陶器の旅

2013年

瀬戸、常滑、信楽、備前、越前とともに日本六古窯の一つに数えられ、その発祥は平安時代末期から鎌倉時代のはじめといわれています。桃山時代までは「穴窯」が使用されていましたが、慶長16年(1611)ごろ朝鮮式半地上の「登り窯」が導入され、同時期に取り入れられた蹴りロクロ(日本では珍しい立杭独特の左回転ロクロ)とともに、伝統技術を今日に受け継いでいます。
当初は、壺や甕(かめ)・すり鉢などが主製品でしたが、江戸時代前期小堀遠州等の指導により、茶入・水指・茶碗など茶器類に多くの名器を生み、後期には篠山藩の保護育成により、直作(なおさく)、一房(いちふさ)、花遊(かゆう)、一此(いちこの)等の名工が腕を競って、丹波焼の名を高めました。
明治、大正、昭和と受け継がれた丹波焼は、太平洋戦争後の苦境を乗り越え、食器・花器等の民芸品を中心とした作品作りに精進しております。
名称については、穴窯時代は小野原焼、登り窯時代になってからは、「丹波焼」又は「立杭焼」と呼ばれてきましたが、昭和53年(1978)「丹波立杭焼」の名称で国の伝統的工芸品指定を受けております。
丹波焼の創業については、これまで鎌倉時代中期をさかのぼる史料がなかったためにその発祥は鎌倉時代とされてきました。
しかし、昭和52年(1977)県道改良工事に伴い、兵庫県教育委員会によって三本峠北窯の物原(捨て場)発掘調査が行われた結果、平安時代末期から鎌倉時代初期の「絵のある古丹波(刻文壺(こくもんつぼ)」を主体とした壺や甕(かめ)などが出土し、丹波焼発祥の地はここで、その開窯期は平安時代末期であることが確認されました。

2014年

信楽焼(しがらきやき)は、滋賀県甲賀市信楽を中心に作られる炻器で、日本六古窯のひとつに数えられる。一般には狸の置物が著名であるが、後述のように多様な発展を遂げている。

信楽は、付近の丘陵から良質の陶土がでる土地柄である。長い歴史と文化に支えられ、伝統的な技術によって今日に伝えられて、日本六古窯のひとつに数えられている。信楽特有の土味を発揮して、登窯、窖窯の焼成によって得られる温かみのある火色(緋色)の発色と自然釉によるビードロ釉と焦げの味わいに特色づけられ、土と炎が織りなす芸術として“わび・さび”の趣を今に伝えている。信楽の土は、耐火性に富み、可塑性とともに腰が強いといわれ、「大物づくり」に適し、かつ「小物づくり」においても細工しやすい粘性であり、多種多様のバラエティーに富んだ信楽焼が開発されている。
信楽焼の特徴は、土中の鉄分が赤く発色する火色や、窯のなかで炎の勢いにより器物に灰のふりかかる、灰かぶりの現象による自然降灰釉(ビードロ釉)の付着、また、薪の灰に埋まり黒褐色になる「焦げ」も含めた、炎が生み出す独特の焼き上がりにあるといわれている。

古信楽にはしばしば見られる特徴的な窯変の現象もある。器面の素地が荒く、細かな石粒(石英粒や長石粒、珪砂)などが多く含まれていることも特徴の一つといえよう。

信楽焼の焼かれた甲賀地域(滋賀県最南部)は、伊賀地域(三重県)と隣接し、そのため信楽焼と伊賀焼は雰囲気がよく似ているといわれるが、これは同じ古琵琶湖層の粘土層を利用しているためで、「古信楽」と呼ばれる信楽特有の土味を発揮して、素朴であたたかい情感は、この古琵琶湖層の粘土にあるといえよう。

灰釉の他にも、植木鉢や火鉢に見られる「なまこ釉」など、絵付の商品が少ないためか釉薬の種類が多いことや、大物づくりの成型、乾燥、焼成技術なども信楽焼の代表的な特徴である。

また、作家によって、焼き〆や粉引など実にバラエティーに富んだ焼き物を楽しめる事も信楽焼の特徴に挙げられる。

従って、現代の信楽焼は様々な技法が用いられる個性あふれる器であると言えるだろう。

2015年

野の天神さん」と親しまれている北野天満宮は、天暦元年(947)に創建され、平安時代に学者・政治家として活躍した菅原道真公をお祀りする全国に約一万社御鎮座する天神社・天満宮の宗祀(総本社)の神社である。現在は、特に学問の神様としての信仰篤く、学問に勤しむ多くの学生が参拝に訪れる。国宝・本殿は慶長12年(1607)に豊臣秀頼が造営したもので八棟造と称され絢爛豪華な桃山建築。菅公が殊のほか愛でられた梅と紅葉の名所でもある。毎月25日は縁日で、境内には多くの露店が立ち並び賑わう

 中でも「月桂冠」は名だたる老舗です。その酒蔵にあるのが「月桂冠大倉記念館」。1909年建造の酒蔵を改装し、1982年に資料館として生まれ変わりました。貴重な酒造用具類の保存展示、伏見の酒造りと日本酒の歴史をわかりやすく紹介しています。すでに入館者が250万人を突破している人気のスポットです。 伏見城の外堀・濠川(ほりかわ)沿いの柳並木、白壁土蔵の酒蔵、1828年に建てられた当主の「大倉家本宅」など、酒造り最盛期の酒の街ならではの趣を体感できます。

2016年

美濃焼(みのやき、Mino Yaki – Mino Ware)とは、岐阜県の土岐市・多治見市・瑞浪市・可児市に跨る地域で製作される陶磁器の総称である。

1978年(昭和53年)7月22日に、通商産業省(現経済産業省)伝統的工芸品に認定されている。

美濃焼が主に生産される岐阜県東濃地域は、日本最大の陶磁器生産拠点であり、日本の陶磁器生産量の約半分を占めている。

歴史
平安時代に作られた須恵器から発展し、鎌倉時代以降、瀬戸市周辺の丘陵地帯ほどではないが古瀬戸系施釉陶器を焼く斜面を利用した窖窯による陶器生産[1]が開始された。15世紀初頭に土岐市域に窯が散在的に築かれる[2]。16世紀に織田信長の経済政策によって瀬戸市周辺の丘陵地帯の陶工たちも美濃地方(土岐川以北)の集落に移り住んで[3]窖窯よりも焼成効率に優れた地上式の単室窯である大窯を多数築いた。桃山時代に、志野焼に代表されるような「美濃桃山陶」が焼かれ一大産地となり、美濃焼の基礎が築かれた。江戸時代になると、窯体構造は、大窯から連房式登窯となり、志野焼に加えて織部焼の優品が生み出された。江戸時代中期に「御深井」が焼かれる。江戸時代末期に磁器の生産が始まり現在では日本の和食器・洋食器の大半を生産する大窯業地となる。

特徴
桃山時代にそれまでになかった自由な発想で登場し、「美濃桃山陶」とも呼ばれる。中でも武将でもあり茶人でもあった古田織部(1543年 – 1615年)が創意工夫を凝らした「織部好み」は有名である。 志野茶碗の「卯花墻」(うのはながき)は、日本製の焼物では数少ない国宝指定物件の1つである。

2017年

常滑焼とこなめやき)は、愛知県常滑市を中心とし、その周辺を含む知多半島内で焼かれる炻器。日本六古窯の一つ。 常滑市栄町の窯業施設. 常滑灰釉壺 平安時代 個人蔵 重要文化財. 常滑壺 ロサンジェルス・カウンティ美術館蔵. 目次. [非表示]. 1 歴史. 1.1 中世の常滑焼; 1.2 禁窯令と常滑焼; 1.3 近世の常滑焼; 1.4 近代の常滑焼. 2 脚注; 3 参考文献; 4 関連項目; 5 外部リンク. 歴史[編集]. 中世の常滑焼[編集]. 平安時代末期(12世紀前半)、猿投窯南部の灰釉陶器窯(およびその系譜に連なる山茶碗窯)の南下に

 

2018年

越前焼は日本六古窯の一つに数えられ、その歴史は古く、今から約850年前平安末期に遡ります。現在200基以上の古窯が発見されており、平安時代末期から鎌倉、室町、江戸時代にかけて、これら大規模な古窯では、かめ・壷・すり鉢・舟徳利・おはぐろ壷等日用雑器が焼かれていたとされています。越前の土の特色を生かした、素朴で頑丈なつくりで、温かみのある土と灰釉の味わいを秘めた民芸的な美しさを持ち、その伝統は今日まで引き継がれ多くの人々に愛好されています。
近年では、自然釉を代表とする素朴な風合いに加え、若手作家による新たな作風も試みられています。

*日本六古窯…備前焼、信楽焼、常滑焼、瀬戸焼、丹波焼、越前焼の六古窯
越前焼は、壺・甕・すり鉢の3器種を中心とした生活雑器として主に使用されていました。
越前焼に使われる土には鉄分が多く含まれ、表面が赤黒・赤褐色の焼き上がりとなり、土が焼き締められます。
このため越前焼は水漏れがしにくく、水や酒・藍染等の染色液の保管に使われたほか、穀物の保存・貯蔵といった用途でも使用されていました。